shinshin136’s blog

建築勉強中の日々を綴る日記ブログ

建築と自然の目指すべき関係性について

My Concept 〜Space of feeling the nature〜

 科学技術の発展により機械設備を用いて内部空間を快適なものにすることが一般的となった現代において失われつつある「身体で自然を感じる」という至極当然のことを建築空間に落とし込むことを模索していきたい。身体で自然を感じるということは、人の持つ感覚全てで自然を感じるということである。それぞれの感覚における建築的思考を以下にまとめる。

 

Ⅰ. 視覚

 近代建築で重宝されたコンクリート・鉄・ガラスの3つの材料が視覚で自然を感じることを可能にした。コンクリートや鉄といった材料が建築における構造の自由度を大きく変容させ、大開口を設けそこにガラスを嵌め込むことで内部空間を維持したまま視覚的に自然と繋がることが可能になった。そしてこの風潮は瞬く間に世界中で容認され、今や世界中どこに行っても全面ガラスで覆われたビル群で埋め尽くされた都市を体験する事ができるようになった。ハコに閉じこもっている限り視覚以外の感覚で自然を感じることはできなくなり、ガラスで閉じこもることを良しとする現代の風潮には疑問を抱かざるを得ない。

 そもそもガラスを使う風潮の根底には建築が内部空間を持たなければならないと言う大前提が隠されているのではないだろうか。太古の昔にヒトが木の枝を寄せ集めたり石を積んだりして作り上げた「家」は外部と切り離された内部を作り上げることに意味があった。それは雨風を凌ぎ、外敵からの隠れ家にもなり、食糧の保存庫にもなり、さらにそこに定住することを可能にした。その流れが現代に至るまで引き継がれ、近代に劇的な発展を遂げた科学技術がそれに拍車をかけ、ガラスのハコに閉じこもっても居住環境を整える事が可能になったばかりに、開口部にはガラスを嵌め込み機械設備で内部空間を整調するという暗黙の了解が出来上がったのである。

 そして忘れてはならないのが、増え続ける人口とそれを賄えないエネルギーの問題に直面している21世紀において、いかにエネルギーを使わず建築物の内部空間を快適な環境にするかに尽力する現代建築では、ガラスを使って自然と視覚的に繋がる方法しか取れないということである。この風潮を覆すためには現在内部空間にばかり使用されている環境シミュレーションシステムを外部空間に適用し、風向や気候、気温など敷地の自然環境を読み込みそれを建築のヴォリュームで制御していくという設計方法が必要になる。太陽光や地熱を利用するということではなく、建築の形態的操作の段階で太陽光の進入度合い、風の流れなどを意図的なものとして計画するということである。そうして出来上がっていく建築はハコである必要はない。 

 

Ⅱ. 聴覚

 風に揺れる木々の擦れる音や動物の鳴き声、水の流れる音など自然の音はたくさん存在する。しかしどれも共通して言える事は外部空間に居なければそれらを認知する事は難しいという事である。現代の建築物のほとんどが内部と外部をはっきりと区切る構図を持っていることから分かるように、日々の暮らしの中で建築と関わっている時ほど自然の発する音から遠ざかっているのである。建築が自然界に起こるあらゆる現象と交歓する事で、その建築を利用する人々も自然の中にいるかのように感じる空間こそが真に自然と共生していると言えるのではないだろうか。

 自然と交歓する建築とは、外構やRCの躯体の上に土をのせ植物を植えたり、水盤を張ったりすることではない。その本質は自然と建築がひとつになる事、すなわち「自然に還る建築」である。RCや鉄骨は数百年経過してもその姿を残し、自然の大いなる流れに戻る事はない。分解されていくこともなく自然に覆い尽くされていくだけである。木や石などの自然の素材だけで構成される建築こそが真に自然と共生し、その建築が作り出す空間でこそ自然の中で生きる事ができるのではないだろうか。

 

Ⅲ. 触覚

 建築から感じとる触覚には建築の仕上げが大きく関与している事は間違いない。現代の建築の多くには内部・外部共に何らかの仕上げが施されているが、内部空間に居て自然を感じる仕上げは多く無い。自然を感じる仕上げに特に顕著なのが壁面緑化や屋上緑化などの植栽を植えるというものである。そうすれば確かに自然を感じる事ができ、まるで建築と自然が共生しているかのように感じられるが、果たしてそれで良いのだろうか。

 ここには現代における自然に対する人間の態度が如実に現れているように感じる。その態度とは、人間が自然を支配しているという大きな勘違いである。大災害によって一瞬で崩れ去る街や地球規模の環境問題を見て分かるように、所詮人類は自然を支配・制御できる存在ではない。さらに地球と言う大自然が存在しなければ生きていくこともできない人類が自然を支配するかのように装飾として建築に纏わせて、自然を制御するかのようにハコに閉じこもり科学技術で快適な環境を作り出す様は、「自然の肌理を感じる」と言う事の本質からはいささか遠いように感じる。自然の肌理とは、時折流れるそよ風や草木の匂いだったり、1日の空模様や気温の変化だったり、野生動物の気配や鳴き声だったり、木や土などに触れた時に感じるその素材らしさだったりというような、自然界に起こる現象や質感そのものである。

そのような自然の肌理を感じる建築に有効な手段として、木やレンガなど構造材料の持つ自然の肌理をそのまま露出させる事が挙げられる。もちろん左官仕上げによる土壁などでも自然を感じられるが、それは前述した「装飾としての自然」に他ならない。真に自然と交歓する建築は木造や組積造で構成され、その構造体こそが仕上げ材になるのではないだろうか。

 

Ⅳ. 嗅覚・味覚

 嗅覚や味覚で自然を感じる建築とはどういったものだろうか。雨の匂いや草木の匂いといった表現があるように、嗅覚でも自然を感じられる。そして匂いは物体によってその流れを遮断される。つまり、建築がハコである限り日常生活の中で自然の匂いを感じるという体験はなかなかできないのである。やはり現代の建築は自然との共生は為し得てはいないのである。

 では味覚はどうだろうか。ヒトが味覚によって物を認知するとき、言うまでもないがそのものを口に含み味を感じている。それを建築について考えた時、建築を口に含むと言う行為が日常生活の中で存在し得るのであろうか。現段階では味覚という自然を感じる要素が、建築を認知する際にどのように機能し役立つのかについては主だった考えを明確に述べることはできないが、ひとつ味覚にまつわる建築の考察を述べたい。

 ある童話に「お菓子の家」というものがあったが、これはまさに建築を味覚で感じているのではないだろうか。お菓子の家という建築の本質はそれそのものが消費されることにある。つまり、現代の建築というものがヒトにとって過ごしやすく快適な空間を提供することに意義を見出されるように、お菓子の家は、家そのものが食べられることによってその存在意義を認識する事ができるのである。家が食べられるというこの関係性は、現代建築が「消費される建築」であるということを視覚化しているようにも考えられる。そういった意味でお菓子の家は「消費」という言葉の本質をついた真に消費される建築なのかもしれない。

 

まとめ

 あまりに横暴で身勝手なヒトという生き物の虚実的な自然共生という偽りの現状をみるにつけて、この傲慢で利己的な本質に立ち向かう建築行為を目指し実験していく事で、建築の新たな可能性を模索していきたい。