shinshin136’s blog

建築勉強中の日々を綴る日記ブログ

建築の評価軸

事務所で働き始めて2年が経過しようとしている。

建築というよりもデザインのなんたるかが身についたような気がする。

どこか建築を見に行く時にはまずは全体を眺めて、

その後内部に入ってしまえば専ら細部の納まりばかり確認するようになった。

ホテル特集の雑誌なんかを見て良い空間だなんて思ってしまった時に、

デザインが良ければ良い空間なのか?

繊細なディテールから構成されるシンプルで無駄のない空間が良い建築なのか?

と、今一度その建築の何を評価するのか、

自分の中でその評価軸ぐらいは整理しておいた方がいいだろうと思い立った。

思想(哲学)・新規性(提案性)・空間体験・光・ディテールの5つに分類して

一つ一つ整理してみようと思う。

 

1. 思想(哲学)

大学時代に学んだ建築は、その建築が構成される理論や社会への提案性など、

コンセプトの良し悪しの比重が大きかったように思う。

その空間の家具や仕上げ材、色味や線の数などから感じられる、

内部空間の「雰囲気」というものを突き詰めて提案するような仲間は一人としていなかった。

自分自身も例に漏れずコンセプトという名の、

その建築の理論をまず第一に考えることが多かった。

事務所で学び始めコンセプトとは縁の遠い設計ばかりを目にしてきた2年間だったが、

やはりその建築のもつ背景、

もっというとその建築家のエゴとも言える思想・哲学の重要性は捨てきれない。

よく見かける箱物のボリュームになんとなく綺麗にデザインされたファサード・内部空間、

建築家の役割はそんなものを設計・生産することではないはずだ。

今まで誰もしてこなかったことに挑戦し、既成観念を破壊し建築を新しい時代に導いてやる、

といった熱量の感じられる作品こそ評価されるべきではないのだろうか。

すなわちまず第一に、その建築で表現したかった何かを感じることができるかどうか、

その建築に込められた思想的(哲学的)背景、ここを重要な評価軸の1つに充てたい。

 

2. 新規性・提案性

第二に、その建築が表現する思想・哲学の新規性や提案性を評価したい。

ル・コルビュジェが提案したピロティ空間や、

建築設備をあえて全面に押し出した

リチャード・ロジャースレンゾ・ピアノのポンピドゥーセンター、

ザハ・ハディッドやフランク・O・ゲーリーのような流線形のデザイン手法は、

その方法があったかと、なぜそんなことをするのかと、こんなこともできるのかと、

その当時建築界に大きな衝撃を与えたことは想像に難くない。

アーキグラムメタボリズムの活動など、

建築に大いなる夢を抱き社会に提案していった建築家も数多く存在する。

アンビルドのものも多いのだろうが、

社会や経済と言った大きな波に呑まれる事なく

こんなにも純粋に建築と向き合っていたのかと憧れすら抱いてしまう。

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そんな彼らの建築への情熱とでもいうべき思想表現が、

低層部と街の連続性を意識した大規模ビルや

パラメトリックデザインという手法を今や見慣れたものへと定着させ、

建築界の動向を大きく左右してきたのであろう。

 

建築に込められた思想・哲学によって、建築界ひいては社会に大きな影響を与えうる建築こそ

真の建築として評価されるべきではないのだろうか。

 

3. 空間体験

上記2つの評価軸はまずその建築と向き合った時に考える、マクロの視点での評価軸である。

3つ目では建物へ入り内部空間を体験した時に感じられる感動を取り上げようと思う。

ファサードは流線型で良くデザインされた魅力を放っている建物の内部空間が、

どこまでいっても幅や奥行き、天井高さの変わらない均質な空間であれば、

それを良い建築だったと評価することはできないだろう。

内部と外部が完全に乖離している様はもはやハリボテのそれと言っても差し支えないし、

見栄えだけを気にして良くできた装飾をお化粧した建物を良い建築といえるだろうか。

外部からの印象が必ずしも内部と一致していなければならないわけではないが、

魅力的な建築というものはその内部空間が外に漏れ出すような、

そんな外観をしている気がしてならないのである(していてほしいのである)。

 

かなり極端で横暴な例になってしまうが、

Javiel Senosiainのケツァルコアトルの巣がまさしくこれに該当する。

簡単に解説すると、外は蛇(本当に蛇)、中は蛇の体内(本当に体内)、

のような空間が見事に演出されている。

彼の作品は社会性を孕んでいないがためにあまり表立って評価はされていない(気がする)が、

我を貫く芸術家的姿勢がなんとも、個人的に"刺さる"のである。

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どの作品にも共通して見られるOganicな(臓器的な)内部空間に、何かの生物を思わせる外観。

一貫して自分の思想を貫き通す姿勢は、受け手側にも作者の意図が良く伝わるものである。

SANAAの薄くて透明な表現も既に消費されたなんて言われることもあるけれど、

建築の歴史の1ページを飾ったことは間違いないし、

それでも尚自分の表現を貫く様は見ていていっそ清々しいものである。

 

また、ここで述べておかなければならないものが、

建築の空間を絶対的に規定するもの、構造の話である。

この構造への積極的アプローチなしには魅力的な空間体験は成し得ない。

柱梁でグリッドを組むだけでは必ず限界がくる。

ものすごく簡単に建築の歴史を振り返れば、

西欧での組石造に始まるであろう建築空間は最初は設ける開口部にも制約がかかっていた。

なんとか開口部を大きく取ろうとアーチ状の組積方法が生み出され、

さらにアーチを連続させることでトンネル状・ドーム状の空間を編み出した

(多分ギリシャやローマの時代)。

それ以降近代の産業革命後、鉄・コンクリート・ガラスの登場までは

〇〇様式のような装飾美が争われていただけだが、

技術の進歩によって新材料を積極的に取り入れることが可能になり、

より自由な空間を実現することが可能となった。

 

現代では新材料の導入というよりはさらなる技術の進歩による構造的挑戦が、

今までに見たことのない魅力的な空間を演出し得るものとして期待される。

台湾国家歌劇院(伊東豊雄)やKAIT広場(石上純也)、リボンチャペル(中村拓志)などは

その最たる例として挙げることができるだろう。

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また、構造をデザインするという手法により新たな空間も生み出される。

芸術科学都市(サンティアゴ・カラトラバ)やVessel(トーマス・ヘザウィック)などは

構造が美しくデザインされ魅力的な空間が創出されているし、

東南アジアならではという感じではあるが、

Nocenco cafe(ヴォチョンギア)などは、

竹を用いた空間表現が新しく非常に魅力的な空間となっている。

 

▽芸術科学都市▽

<http://www.bubblemania.fr/ja/2002-la-cite-des-arts-et-des-sciences-valence-espagne/>

▽Vessel▽

<http://www.heatherwick.com/projects/spaces/vessel/>

▽Nocenco cafe▽

casabrutus.com

 

色々述べてきたが建築の評価軸としてはシンプルで、

空間体験として均質なものより変化(起伏)のあるものの方が、

体感する側としては感動を呼び起こされやすいだろうし、

また、素直に感銘を受けるものであることは間違いない。

そんな空間が創出されているということは、

建築を評価する上での重要な一軸となってもおかしくはないだろう。

 

4. 光

建築は主に人が活動することを前提としているため、

光という名の明るさは欠かせない重要な要素となり得る。

ここでいう光とは照明器具による明るさの確保ではなく、

建築に穿たれる開口部から入る光の重要性である。

科学技術が発展し昼夜問わず光に溢れた生活が可能となった現代において、

建築それ自体で光を調整する必要があるのかと言われそうな気もするが、

エネルギーはいつか尽きる(尽きずとも現状の総人口を賄えるほどの供給は永遠ではない)、

という個人的見解に基づき光を評価軸の1つに充てたい。

 

光の持つ効果は大雑把に言って、その空間に対する心象心理を決定づけるところであろう。

光が全く入ってこない真っ暗な空間であればある種の不安や恐怖感を、

逆に屋根などかかっておらず光に溢れた空間であれば気持ちが晴れ渡る開放感を、

そしてその中間、ある空間内で明暗の差が現れ始めると不安や恐怖感はなくなり、

さらに開口部の絞り方次第では開放感も消え去ってしまう。

この、絞られた開口から漏れてくる光は開口部付近を柔らかく照らし、

開口部から遠ざかるにつれて仄暗くなっていく空間を演出する。

この空間で我々が感じられ得る心理は、

背筋が正されるような緊張感とでも言うべき、荘厳な、静謐な、神々しい、

と言った形容詞で表現される空間体験となるのではなかろうか。

竹林寺納骨堂(堀部安嗣)や狭山の森礼拝堂(中村拓志)など、

薄暗い空気感の中に程よい緊張感が漂っている建築に魅力を感じずにはいられない。

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余談だが、建築雑誌GAを見ていると白黒の写真は必ず出てくる。

これはきっと建築に入ってくる自然の光を明暗のみで表現しようとする試みなのだと、

勝手に解釈しているのである。

そして、やはり光は重要だと再認識するのである。

 

5. ディテール

最後は建築の最もミクロな部分、ディテールである。

ミースファンデルローエの言った"God in Details"は当然大学時代にも聞いた言葉だが、

正直言って学生時代には全く意味の分からなかった言葉でもある。

幸いなことに現事務所では、これは建築をしているのか?

と思えるほど納まりや見え方にこだわっているため、

ディテールという言葉の意味は理解できた気がする。

デザインとの境界線が曖昧になりがちなのだが、

建築に表れてくる様々な要素をデザインすることを、

ここではディテールと定義することとする(ディテールも広義ではデザインと同義と捉える)。

開口部一つをとっても枠を見せるのか見せないのか、

床と壁の仕上げ材の選定に始まり、現場での勝ち負けをどうするのか、

実際に作っていく上での細かな気配りが求められるのがディテールである。

そしてこの気配りが最終的に立ち現れる空間に、

前述の光との相乗効果で大きな影響を与える。

 

daita2019(山田妙子)の鉄パイプが力強く雑多で楽しげな印象を与えるのに対し、

六甲枝垂れ(三分一博志)の木組みは一見バラバラに見えるものの、

全体として統一感が生み出され美しさ・緊張感を孕んでいる。

これはファサードの木とスチールの接合部に目立つ金物を使用せず

余計なものを省いたことによる効果、細かな気配りの成果である。

youtu.be

 

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こう言った気配り一つで空間の持つ印象が変わってしまうのだから、

ディテールという要素も建築を評価する上で大切にしていきたいと思うのである。

 

まとめ

設計事務所という社会団体に属し学んでいる以上見え隠れする、

建築の持つ経済性について建築の評価軸には加えなかった。

それは経済を優先すればマンションや高層ビルなどに見られるような、

同じ平面をただ積層させるだけのつまらないものができあがると考えているからである。

そして、経済と建築の程よい妥協点を見つけ建築を作ることにも全く意味を見出せないし、

経済の干渉によって建築がより良いものになるとは到底思えない。

建たなければ意味はないと言われるのも理解できるが、

建築家はあくまでも芸術家、すなわち表現者であるという立場のもと、

純粋に自身の建築哲学を追求していくことを目標に、

建築家という表現者になれるよう一歩ずつ地道に日々邁進していこうと、

決意を新たにするのである。